現在,多くの患者が初めて排泄ケアを受けるのは急性期病院であり,地域の中核を担う急性期病院でのケアがその後の患者の生活の質(QOL)に大きく影響する.排泄ケアをはじめとする生活行動の援助の重要性,そしていまこそ見つめ直したい「看護の力」「看護の原点」について,川嶋みどり氏に話を聞いた.
私は東日本大震災から約1か月後の4月27日,引退した看護師約10人とともに現地入りしましたが,震災直後に現地入りした看護師から,「まず困ったのがトイレだった」という話を聞きました.彼女たちが最初に始めたのが,水が流れず,便器の上に敷いたダンボールや新聞紙に溜まった便を手で掻き出し,トイレの環境を整えることだったといいます.
“そんなことは専門職である看護師の仕事ではない”と言われたこともあったそうですが,私はこの話を聞いたとき,戦地に入る前から環境を整えることの重要性を予測し,兵士の傷の手当てよりも先に,不衛生だった病院の環境を整え,汚れたリネンを洗濯したというナイチンゲールのことを思い出しました.
避難所でゴム手袋も雑巾もないなか,汚物を処理し,拭き掃除をして生活環境を整えるという行動は,誰にでもできることではありません.まさに彼女たちはナイチンゲールであると思いましたし,震災直後の極限状態にある被災者がもっとも困っている排泄の環境を整えることは,看護の原点であると感じました.
人間である以上,「トイレに行く」「息をする」「食べる」「動く」「身体をきれいにする」「休息する」ということは,人間が人間らしく生きていくための基本的な営みです.それが欠けることは健康状態や,ときとして生命をも脅かします.そのほかにも,「身だしなみを整える」「コミュニケーションをはかる」「趣味やレクリエーションを行う」「学習する」「誰かの役に立つ」といった人間特有の営みもあります.
洗濯や買い物などは誰かが代わりに行うことができても,人間としての基本的な営みはその人自身にしかできません.病気を患ったり高齢になり,基本的な営みが自分の思いどおりにできなくなることは,その人にとって病気そのものよりつらいことと言えるでしょう.それはあまりにも日常的で習慣的なために,失ったり,不自由になってみないと大切さがわからないものです.こうした状況におかれた人に対し,その人が自分で行ってきた営み,つまり生活行動を援助することが看護の本質であり,独自性なのです.
看護師には,保助看法による「診療の補助」と「療養上の世話」という2大業務が定められていますが(図),「療養上の世話」は,誰にも代わりができない生活行動を,患者さんが望むやり方やタイミングで行えるように援助することです.
しかし,医療の進歩と高度化,現行の診療報酬制度上の問題から,近年ではその仕事の内容が「診療の補助」に偏り,看護は,その独自性でも,専門性でもある「療養上の世話」を捨ててしまったのではないかと感じることがあります.
看護師が行う生活援助には,患者さんの自然治癒力を引き出す力があることを,看護師自身が実体験できないことも,看護が療養上の世話を重視しなくなった要因のひとつだと感じてます.
私が新人看護師時代に受け持ったある少女は,悪性腫瘍で予後不良となり,病院を転々としている間に身体は衰弱して脈も弱々しく,全身が垢だらけでした.当時の私にできることは全身清拭だけでしたので,1週間かけて毎日注意深く部分清拭をしました.すると,ビタミン剤入りの20%ブドウ糖20mLで生命をつないでいたその少女が「看護婦さん,おなかが空いた」と言い,卵粥を食べたのです.
当時は看護学の教科書もない時代で,全身清拭がもたらした神経生理学的な根拠を知ったのはずいぶんあとになってからのことです.結局手術はできませんでしたが,数日で生命が尽きると思われたその少女は,3か月間病室で残りの生活を送ることができました.
その実体験の後,改めて私は,ナイチンゲールの著書にあった「安楽とかいうものは,それまでそのひとの生命力を圧迫していたあるものが取り除かれて生命がふたたび生き生きと動き出した徴候」*という一文に目を奪われました.“そうか,大きな腫瘍以上にその少女の生命を脅かしていたものは,全身の垢だったのだ”と.熱湯とタオル,そして看護師の心のこもった手があれば,生命を救うこともできるのだと,これこそが看護の力なのだと実感することができました.
もちろん,排泄も生活行動のひとつです.人は生まれてすぐにオムツをしますが,トイレが自立してからは,自分でそれができない状況になるまで,誰にも見られず個室で自ら用を足したいと思うものです.排泄とは,そのくらい人間らしさを守る最後の砦とも言えることです.
それでも誰かの手を借りなければならない状況になったときには,気持ちよく,自分でやったときと同じように,尊厳を守った排泄ケアを受ける権利があります.自分らしい生活を送ることを我慢したり,あきらめざるをえなくなって日常性が損なわれていくから,患者さんが戸惑うのです.
排泄は,膀胱や直腸の開口部と生殖器官が隣接していることから,性のタブーとも重なり,タブー視されてきた側面もあります.自分の身体から出てくるものへの関心は誰もが持つものですが,日本では排泄の話は下品なものとされ,子どもが頻繁に話題にする時期がある以外,人前で話すことはほとんどありません.
以前に比べて排泄や失禁の話題もオープンにされるようになってきましたが,こうした文化的な背景を考えれば,排泄を人の世話になったり,失禁したりしたときにためらったり恥じらったりするのは,日本人の当然の感情なのです.
ですから,看護師が排泄介助をするときにも,「これは私たちの仕事ですから,恥ずかしくありません」と,物を扱うように言うのではなく,患者さんが“すまないね” “ごめんなさい”という気持ちを表現したときには,「いいえ,大丈夫ですよ」と,素直に受け止めることが大切です.
病院看護の基本である安全と安楽に立ち返り,医療安全と同じように,安楽文化を醸成していく必要があると思います.
看護の受け手にとって安楽な状態を目指すことは,生命の安全,すなわち救命にもつながることです.逆に言えば,患者さんが苦痛を感じている状況下では,生命の安全も脅かされているということになります.ただし,安楽とは,単に苦痛が緩和された状態という意味ではなく,人間らしさ,つまり尊厳を守るという視点が不可欠です.尊厳と安楽性は同じであり,その根底に生命の安全があるのです.それこそが看護のアイデンティティなのではないでしょうか.
いま,看護の現場では,看護の達成感や自分のアイデンティティを高められる経験ができていないのではないかと感じています.
排泄ケアで言えば,看護が行うことは,排泄物を片づける,オムツを換えるという業務ではありません.排便,排尿に至るまでの心理的,社会的,身体的な要素をアセスメントしながら,その人が自然に排泄できるようにするためにはどうすればいいのか,浣腸や下剤の服用に頼らずに排便や排尿を促す方法やどうしたら失禁の回数が減るかを考え,実践していくことなのです.
出し惜しみのケアでは,看護師自身が仕事への満足感や達成感を感じられません.看護師が考え,実践する場を与えること,ときには1 人の患者さんに深くかかわるなかで実感する経験を持たせることも必要です.そこで看護の面白さが実感できれば,ほかの患者さんのケアもより深く考えて実践したいというモチベーションになります.
自分が一生懸命ケアをしたことで患者さんの状態がよくなれば,看護師もうれしいし,患者さんがそれで喜んでくれたら,二重の喜びになります.こういう醍醐味を味わう機会をつくることが,いまの看護師には必要ではないでしょうか.
*F.ナイチンゲール(小玉香津子訳):看護覚え書.現代社,1968.